「生きろ、そなたは美しい」
こんにちは。
ふとしたきっかけでピアノ熱が再発し、蒔絵のような鍵盤がないかと模索していたらマジであって逆に引いてます。
今日の一曲。
アシタカせっ記/久石讓
もののけ姫といば、名台詞
黙れ小僧
ではなく、このアシタカせっ記をピアノで弾き出したのをきっかけで、もののけ姫がどんなアニメーションだったのかを知ることとなりました。
サンの気持ちを思うと涙しか出ない。
アシタカの行動がイケメンの範疇を通り越して変人にしか見えない。
小さい頃に見たただの怖気持ち悪いもののけ姫が、今私の心を引っくり返している。
サンが私の身代わりになって全てを代弁してくれているような。
でもわけがわからなくなる。
あまりにもサンとアシタカの立場や気持ちが深く描写されすぎて、それがそのまま自分に重なりすぎて、自分のことを自分では鏡以外では永遠に姿を見ることができないような、一番理解できないかのような、見ていてそんな感覚になる。
サン「来るな!人間なんか大嫌いだ!」
アシタカ「私は人間だ。そなたも人間だ」
サン「黙れ!私は山犬だ!」
アシタカは好きだ、でも人間を許すことはできない。
サン「死などこわいもんか!人間を追い払うためなら生命などいらぬ!」
アシタカ「わかっている…最初に会ったときから」
サン「そのノド切り裂いて、二度とムダ口がたたけぬようにしてやる!」
アシタカ「生きろ…」
サン「まだ言うか!人間の指図はうけぬ!」
アシタカ「そなたは美しい…」
私はこれらのやり取りや状況を、
私がサン
アシタカは主人と主人のご家族、主治医、友人
というふうに経験し、今もしているように思います。
私が最も鬱や強迫性障害で辛かった時、私は人間が怖かったし、実の親も信頼できなくなって、産んだ親を恨み生まれなければよかった明日が来なければいいと思っていました。
私は生きていてはいけない人間だ、生まれなければよかった人間だ、私さえいなければ主人や主人のご家族はもっと幸せだったのにと。
今は、人間が嫌いで人付き合いも下手くそで、誰かを傷つけている。心を開ける人以外遮断してしまう。
そんな私でも受け入れてくれる数少ない友人がいる。
こんな私でも生きていいよと言ってくれる。
他人を受け入れることができなかった私を、受け入れてそのままでいい、生きているだけでいいんだよと言ってくれる。
頑張らなければ価値がないと思っていたところに、生きているだけで美しいと言ってくれた気がした。
私はそれで、親の呪縛から逃れたような気がするし、今の学校生活や人間関係の疲弊からも逃れられた気がする。
もののけ姫を見ていると、自分の心がありありと映し出されるような、そして自分を受け入れることを許される、そんな感覚になる。
生きてることが美しい。
食べ物だってなんだって溢れている時代に、「生きろ」と伝えられること。
この映画の凄みを感じます。
アシタカは俺の嫁。
「強迫性障害」から自分を救うには、自分を愛し認めること。
おはようございます。
さて、今日は久々にシリアス?な病気のお話をします。
苦手な方はスルーしてくださいね。
私は十数年「強迫性障害」とともに生きています。
入院通院投薬を経て今は寛解していますが、何か不慮の出来事が起きるとこの小憎たらしい"相方"は顔を出してきます。
あえて"相方"という言い方をしたのは、この「強迫性障害」というものはあくまで自分自身の一部だと思うからです。
こだわりや完璧主義や真面目さや優しすぎるという「性格」が、いろんな「症状」として現れてしまう。
だからこれは、自分自身なんですよね。
「強迫性障害」は脳の異常ではないという研究を読んだことがあります。
私は自分が治療を経験してそれを身を以て実感しました。
あれだけ怖くて気持ち悪かったものを直視し突入し苦しみに飛び込んでいく。
脳の異常であれば、このような一見荒治療みたいな行動療法を実行することすらできないと思います。
私は、今朝、久しぶりに苦しみました。
祖母が亡くなって帰省した時に着て行った服が着れないのです。喪服じゃなくて、私服です。
何回も、別の服を着ようと取っ替え引っ替えし30分は悩みました。捨てようかとさえ思いました。
これを着て今日買い物をしたら、それを身につけたらまた大切な誰かが死ぬんじゃないか。
書いていても少し怖くなります。
けど、今それを着て買い物に出てきています。
こうしてブログ書いてます。
そんな縁起の悪いことを考えてしまうのは自分の性格。脳の異常でもなんでもありません。
「ちょっと気にしすぎる性格なんだね。」
「そんなに大切な人を想ってしまうほど愛情深いんだね。」
って、自分を認めてあげる。
恐怖で震える自分を認めて愛してあげる。
そしたら、この恐怖をだんだん受け入れられるのです。
この強迫性障害は私の相方で、ちょっとイタズラしてくるけど、叱ったり殴る蹴る等の暴行を加えないでちゃーんと向き合って認めてあげる。
そしたらずっといい子ちゃんになっておとなしくなってくれるんです。
これはきっと暴露反応妨害法の流れと同じだと思います。
★怖い★不安★嫌悪
→それを振り払わずそのまま受け入れる
→時間が経つとなんかマシになってくる
→だんだん怖くなくなる
振り払わなくていいよ、そんな自分も自分なんだよ、それでいいんだよって。
こんな気にしすぎる自分も愛してあげる。
そしたら、この服を着ることが怖い自分が可愛くなってきて。
あぁ、実際に縁起が悪いとかうんぬんじゃなくて私の考え方なんやなー。こんな私やけどまぁえっか。かわいいなぁって。
いや、可愛くないけどな実際www
けどもすごく楽になります。
症状が自分自身なのなら、それを受け入れてあげましょう。
するとおとなしくなっていい子になってくれるから。
気にしない関係ないって思える人は何も考えないで普通にその服を着て日常を過ごすでしょう。考え方と性格の違いです。
だから、初めは本当に怖いと思うしそんな余裕ないと思うけれど、ダメ元でもいいからやってみてください。
自分は、あなたは、大切だ。
思えなくても自分自身に思ってみて下さい。
私も思えなかった。し、今も自分が好きではない。
破滅的に生きたいとさえ思うけど、破滅的に生きるためには大切にしないとそれさえできないんです。
なんと言おうとあなたは大切です。
開いた口が塞がらない文章力の欠如が露呈されてますが、どなたかのお役に立てたら幸せです。
強迫性障害は、必ず治る。これがどれほど強烈に辛くて、回復し始めた途端の希望が大きいかについて
おはようございます。
今日は病気のことを書きますので、苦手な方はスルーしてくださいね。
私は物心ついたときから、強迫性障害というものを抱えていました。
高校一年生だったかな。キリスト教系の学校だったのですが、それ系の行事でちょっとした事件があり、そこからすんごい完璧主義と縁起恐怖が始まりました。
とにかく、少しでも嫌悪感を抱いたものは排除するんです。
キモイ先生(失礼)、苦手な生徒、見た目が苦手なその辺の人たち。
そして今だから恐れずに言いますが、事の発端であるキリスト教関係のものが怖くなり避け続けました。
その頃Dragon Ashが大好きでしたが、kjがクリスチャンだと知って聴けなくなってしまいました。
テレビでよく見る有名人がクリスチャンじゃないかも調べ始めました。
そしてその人たちがテレビに映ると消しました。見たらどうしようもないほど嫌悪感に襲われるのです。
そしてそのうち、その人たちが頭に浮かぶとそのときにしていたことをやり直す、いわゆる「打ち消し行為」をするようになりました。
地獄の始まりはここからですね。この症状が内容を変えながら15年くらい続くわけです。
一番酷い最後は、ダイエット狂想により太った人を排除してて、マツコとか見た瞬間に過呼吸になり打ち消し行為をしまくってました。外に出られないしなにもできないんです。
いまだに今まで恐怖を覚えたことに対して自分の中に名残は残ってますが、やり直さずに済んでいます。
逆に言うと、15年くらいほったらかして最悪な状況(しかも摂食障害と鬱とパニックと色々抱えてる圧倒的絶望的状況)でも回復からはすごく早くて、今ではほぼ完全に日常生活を送れているということ。
しかも、コミュ障なのになかなかハードな生活を。
完治ではないですね。寛解という言葉が正しいかな。
上手くお付き合いして強迫ちゃんを飼いならせてるんです。
強迫観念を無理に消そうとしないこと、受け入れること。
でもこれが病気真っ只中のときは死んでもできないんですよ。
受け入れるイコール自分の破滅だと思って強迫行為頑張ってますからね。
だから、私の場合は半強制的に入院して行動療法に踏み切りました。
初日は目眩がして倒れそうになったことを覚えています。マツコとかの写真を持って病院中練り歩くんですよwww
でもね、ほら。今思えば笑い話になるんです。
私は精神面だけでなく身体もボロボロで病気のデパートだと言われていました。
今もまだ身体の方は完治してません。
でも、こんなやつでも強迫性障害は治ったんです。自分が一歩踏み出せたなら、踏み出させてくれる人がいたら、必ずよくなります。
だから同じ悩みを持っている方に心から言いたい。
絶対に諦めないで、とにかく踏み出してください。生きて、希望を持ってください。
大丈夫、私たちはなんとかなるんです。
また次回は、摂食障害について書こうと思います。
お読みいただきありがとうございました。